アレステッド、、南部っぽい泥臭さを持ちながらも洗練されたヒップホップで当時一線を画していましたよね。私も1stアルバムは虜になりました。めっちゃカッコイイ。
Alphabet St.で「テネシー」と聴こえてくるたび、印象に残っていました。 プリンスとテネシー(南部のテネシー州)??なんかイメージ合わないなぁーって。 それをテネシー出身のスピーチが再利用する!超クール。
日本でも人気があって、なぜか数年前からエイベックスに所属しています。
スピーチ(アトランタ在住)のインタビュー記事面白いので、一部ざっと訳しました。
・サンプリングに使ったことで、プリンスの弁護士から100,000ドル請求された。(訴訟は起こさないので、訴訟の代わりに金額を払えと言われた)
・スピーチにとって、プリンスは一番好きなアーティスト
・アトランタの最終公演は行っていないが、何度もライブを見たし、ペイズリーパークでも演奏したことがある。
・プリンスとの最初の出会いは、1993年にプリンスから召集がかかった。だが、その時はアルバム作りに忙しく実現しなかった。
・“遭遇”したのは、ツアーでミネアポリスに行った時。アレステッドのメンバーがプリンスの知り合いで、プリンスに会えるか電話したところ、プリンスがOKした。 が、ペイズリーに行っても、プリンスは“隠れ場所”から出てこなかった。 隠れ場所→ 当時聞いたところによると、プリンスはマジックミラー(一方から見える鏡)越しに 我々を見ていると言われた! プリンスはとうとう出てこなかった。
・実際に会えたのは、2004年か2005年に友人のベーシスト(地球上で最高のベースプレイヤー)のバンドとツアーに出た時。 彼がペイズリーパークで演奏するよう招待され、自分もお供でついていった。
・実際に会ってみて、夢のようだった。作曲家としても、人間としてもあらゆる意味でプリンスの影響を受けていたから。 とてもファンタスティックだった。 プリンスに、どれだけ自分がプリンスに感謝しており、一番好きなアーティストかということを伝えた。 プリンスは感謝しながらも言った「君のキャリアの調子はどう?」
・Alphabet St.のプリンスのワード「テネシー」をサンプリングに使っていることについて、当時サンプリングのライセンス法なんて知らなかったし、音楽業界もよくわかっていなかった。 というのも、“サンプリング”は新しい現象だったから。誰からも何も言われなかった。
トップ10チャート入りした時に、プリンスの関係者から連絡があり、サンプリング使用料として100,000ドルを請求された。長年音楽業界にいる今ならわかるけど、当時プリンは大目に見てくれた。もっと他にも請求する手段があったはずだけど、Flat fee(定額)だけを請求した。Writing Credit(作曲のクレジット)は含まず、100,000ドルのみ。だから支払った。
当時全米でヒットしたからもっと払えたけど、プリンスはチャートから下がるのをじっくり待ってくれた。下がったとたん関係者から電話があった。その行為は彼の判断力が本物である(知覚が鋭い)ことの証しであり、プリンスがどう考えているかの証しだと感じた。 でも、実際に会ったら、プリンスはとても楽しい人で、自分達がやってきたことに尊敬の念を払ってくれた。
・「I Wanna Be Your Lover」を聴いた時、最初は女性だと思った。当時プリンスの写真なんてなかったから。
・プリンスで思い出深いアルバムは沢山あるけど、『Sign ‘O’ The Times』に入っている「The Ballad of Dorothy Parker」が特に好き。 「The Cross」も素晴らしい。彼が亡くなったことを考えると、『Under the Cherry Moon』(プリンスが、どうやって若いヒーローが亡くなるかについて話すシーンがある)からの何曲か。「Sometimes It Snows in April」(人生のもろい側面や、生きている間は情熱とともに生きたいと語っている)もいい。
もっと長いのですが、ここまで。
皆さん、この機会に英語を勉強されるといいですよ! 世界が広がるし、情報量が全然違ってきます。 3年位集中して勉強すれば、何とかなるんじゃないでしょうか。
さて、仕事!
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