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バイオグラフィー:カルトからスターへ

渾身のデビュー作の失敗と、セカンドアルバムの成功

オーウェン・ハスニーの売り文句にプレッシャーを感じていたのか、プリンスはデビュー・アルバムで自身の持つ力のすべてを注ぎ込みました。 半年近く費やして1978年にリリースされたデビュー・アルバムは、プリンスの完璧主義的な側面の象徴でもあります。繰り返される録り直しやオーバー・ダビングで、レコーディング費用は2万ドル以上オーバーしました。
しかし、 セルフ・プロデュースを前面に売り込み、プリンスが担当した楽器(27種類!)を列記したデビュー・アルバム「For You」は、期待通りの売り上げには至りませんでした。個人的には大好きなアルバムですが、のちの奇抜さや華麗さといった要素は確かに欠けているのかもしれません。

愛のペガサスの頃のプリンス普通なら、高い買い物をしたワーナーの節穴ぶりが嘲笑されて終わる話です。ですが、プリンスは明らかにファースト・アルバムで「何か」を掴みました。彼の凄いところは、勤勉さが半端ではないところですが、失敗から学ぶ術にも長けていたのでしょう。

続くセカンド・アルバム「Prince」(邦題は愛のペガサス)では、いきなりスマッシュ・ヒットを飛ばしました。ファースト・シングルの「I Wanna Be Your Lover」は、当時ソロ活動をはじめたマイケル・ジャクソンのシングルとチャートで拮抗。 聴衆は、このゲイっぽい不思議な魅力を持った小さな青年に注目しはじめます。

「キワモノ」、そして実力派

一般に、サードアルバム「Dirty Mind」で、プリンスが「開眼」したように言われることが多いようです。 正確にはデビュー当時からその片鱗はありましたが、より過激さを増したのがこの時期でした。タイトル曲、「Head」、「Sister」など、良識派が眉をひそめそうな曲が突出しています。

Dirty Princeプリンスは初ライブの頃から、奇妙な服を身に着けていました。それは、女性もののブラウスであったり、レッグウォーマーであったり、半裸にサスペンダーといった具合。明らかに「普通じゃない」。これで実力が伴わなければ、ただの「キワモノ」としてショービズ世界から姿を消します。しかし、プリンスの場合は確固たる地盤がありました。耳の肥えた人や、業界通はこぞって彼に注目。
「ライブでマスタベーションの真似をしながらファルセットで歌う大馬鹿者(笑)がいるらしい。」「いや、彼の音楽は本物だ。凄い!」

そんな中の1人に、ローリング・ストーンズのミックジャガーがいました。ミックは自身のバンドのライブに、前座としてプリンスを起用。プリンスにしてみれば、またとないチャンスでした。

が、結果は悲惨なものでした。恐らくプリンスの人生でもっとも忘れがたく、そして忘れてしまいたい屈辱でしょう。
温かく迎えられるどころか、壮絶なブーイング。プリンスは演奏を中断し、郷里に戻ってしまいます。説得されて再び立ったステージでは、さらに悪質な妨害を受けます。プリンスに投げるために腐った食べ物を用意している愚か者もいました。勿論演奏は中断…。保守的なロック・ファンであるオーディエンスは、プリンスの外見に虫唾が走ったに違いありません。彼らは、プリンスの音楽など聴いていなかったのです。ミックは、そんなオーディエンスに向かって言ったそうです。

プリンスがどんなに凄い奴か、お前らには分からないだろう
(個人的に拍手!)

 

Controversy直後、プリンスはアルバム「Controversy」(邦題は戦慄の貴公子)をリリース。過激な歌詞は健在でした。そして、タイトル「Controversy」(論議)通り、プリンスは様々な論議の渦中にいました。それに対する思いを、プリンスはタイトル曲で歌っています。
「I just can't believe all that things people say.」

また、プリンスはこの時期にファンクバンド「The Time」をプロデュースしています。旧友であるモーリス・デイを筆頭に据えたこのバンドは、殆どプリンスの影バンドでした。作曲から演奏まで、殆どプリンスがこなしています。デビュー間もないプリンスは、自身の創作意欲を毎年のリリースだけでは消化しきれなかったのでしょう。この「怒涛のつまみ食い」とも言える食欲は、 色々に形を変えつつも、プリンスのサブ・アクトとして連綿と続くこととなります。

THE TIME

1982年の「1999」

プリンスのキャリアを勢いづけることになる、初の2枚組アルバム「1999」が1982年にリリースされました。ワーナーは、商業的にリスクのある2枚組の発売を渋り、一部の地域では曲目を削った1枚組として発売しました(後に2枚組として再販)。

一部の心配をよそに、このアルバムはシングルから徐々に火が着き、素晴らしい成功を収めることになります。非常に長く売れたアルバムでもあり、売れるまでに時間がかかったアルバムでもあるのです(この辺は2枚組のハンディキャップもあったでしょう)。
同アルバムからのシングル「Little Red Corvette」は、MTVで頻繁にプレイされ、プリンスの認知度は加速度的に向上します。

GOLD SOULおりしも1982年は、マイケル・ジャクソンが怪物アルバム「Thriller」を放ち、世界中を席巻していた頃です。
MTVが新しい広告媒体として確立する頃、プリンスもその波に乗りました。乗ったというより、一緒に波を起こしたという方が正確かもしれません。この若き才能溢れる黒人アーティスト達は、不思議なシンクロニシティでもって世界を手中に収めることになります。

左の写真に含まれるリック・ジェイムスは、波に乗れずに転覆してしまいました。彼はプリンスと少なからぬ因縁がある人物で、当時は最大のライバルとして目されていましたが、人生分かりません。

スターの仲間入りを果たしたプリンスは、映画のプロジェクトに参画します。 「1999」で空が紫に染まると予言したプリンスが、本当に世界を紫に染めてしまう日まで、あと少し…

参考文献:
「プリンス大百科」ソニー・マガジンズ ISBN4-7897-0689-3 
「A Pop Life」㈱CBS・ソニー出版 ISBN4-7897-0506-4
「Prince[1958-1994]」宝島社 ISBN4-7966-0859-1
「戦略の貴公子」blues interactions, inc. ISBN 978-4-86020-257-6

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