バイオグラフィー:名声と賞賛を超えて
理解できない人はしなくていい
世界中がプリンスを待っていました。
あの、「Purple Rain」を超える傑作を携えてクールに登場するプリンスを。そして誰もが知っていました。天才であるプリンスにとって、それが造作も無いことだと。
しかし、プリンスは多くのファンを裏切ることになります。
まるでエサを待ちわびる雛鳥に舌を出してからかうように、プリンスはサイケなごった煮アルバム「Around The World In A Day」をリリース。
シングル・カットされた「Raspberry Beret」のMVを見て、多くの人は驚愕したことでしょう。あの「高貴な悪」のプリンスが、空色のスーツに身を包んで、「みんなの歌」さながらに楽しそうに歌い踊っているです。髪型は妙なマッシュルーム・カット。しかもバックにはアニメ。
意地の悪い評論家は口々にささやきました。
「ふざけているのか?」
「成功で頭が変になったに違いない」
「前作を超えることができないから開き直ったんだろう」
一般的に、大成功を収めたアーティストというのは、守りの体制に入るものです。アルバムは寡作になり、冒険することは滅多になくなるでしょう。しかし、プリンスは違いました。プリンスは成功を手にすることで、「やりたいことをやりたいようにやれる」環境を手にしたのです。大成功を収めたアルバムのあとも、毎年のアルバムリリースのペースが衰えることはなかったし、より多彩な方面へ創作意欲が広がっていくのでした。
Under The Cherry Moon
プリンスの溢れる才気は音楽だけに止まりませんでした。
プリンスは再び映画製作に手を出したのです。それも前回の成功に気を良くしたのか、今回は監督までもを自らが担いました。
確かにプリンスは器用であり、レコーディング技術なども他人の作業を見て覚える能力に長けていました。
監督業も、プリンスにとっては朝飯前に思える作業だったのでしょう。
しかし、「監督業ができる」ということと、「素晴らしい映画を作れる」ということは一致しません。残念ながら、プリンスの奇妙な感性は音楽以外のジャンルでは裏目に出ることとなります。
ヨーロッパを舞台に前編モノクロで撮影された古典的ロマンティック・コメディ「Under The Cherry Moon」は、お世辞にも優れた映画とは呼べる代物ではありませんでした。映画は酷評され、興行成績も悲惨なものとなります※。(ただし、綺麗なプリンスを堪能できるので、プリンスファンの間に限っては人気の高い映画)
※86年のゴールデン・ラズベリー賞を総ナメ。同年最下位(?)を争ったのは「ハワード・ザ・ダック」…
「革命」の終焉
プリンスのバックバンドであるザ・レボリューションが電撃的に解散。これには諸説ありますが、バンドの影響力が次第に大きくなってきたことに対してプリンスがリセットをかけたがっていたのが原因であるとも考えられています。つまり実質的にはプリンスによる一方的な解雇でした。
マット・フィンクは引き続きプリンスのバンドに在籍し、それ以外のメンバーはそれぞれ独立した活動を開始します。
ほとばしる創作意欲
プリンスの創作ペースは神がかっているとしか言いようがありません。もともと沢山の曲を録音してはボツにしてきた人ですが、この時期はその速度が尋常じゃないレベルに達していました。
「Camille」、「Dream Factory」(2枚組)、「Crystal Ball」(3枚組)という3つのプロジェクトを創り上げ、壊しました。
そして、1987年。バラバラになった素材の中から、「Sign O' The Times」(2枚組)という新たなバベルの塔を築き上げたのです。結局2枚組みに収まったアルバムは、プリンスの最高傑作の1つとして挙げられることが多い名作です。
しかし、しばしばスタッフはプリンスの異常な創作ペースに悩まされます。
Sign O' The Times のヨーロッパ・ツアー終盤、プリンスは急遽ライブの模様を撮影することを思い立ちます。前日にすべての機材の用意を命じられるスタッフ。幸いにも作業は綱渡り的に成功しますが、スタッフの苦労は尋常ではなかったでしょう。ただし、品質の問題があったため、多くのテイクがスタジオで撮り直されました…。最終的にはコンサート映画として公開され、評論家からの絶賛を浴び、今日に到るまで名作と語り継がれることとなります。
1987年といえばもう一つのトピックは、「ペイズリーパーク・スタジオ」です。約1,000万ドルをかけられた広大なスタジオ・コンプレックスがシャンハッセンに竣工します。複数のスタジオ、サウンド・ステージ、居住空間や食道までを備えた同スタジオは、プリンスの人格そのものと言ってもいいかもしれません。大金を手にして放蕩するミュージシャンが多い中、彼が投資したのはあくまで音楽でした。プリンスの真面目さ・勤勉さは敬服に値します。このスタジオは、プリンス逝去後にはミュージアムとして一般公開されています。
天国にいる気持ち
タイトルもジャケットも無い、だけど超ファンキー&ネガティブなアルバム、通称「Black Album」を土壇場(発売の1週間前)で発売中止にしたプリンス※。その代わりにリリースされたのは、「Black Album」が持っていたネガティブさの対極にあると思える、非常にポジティブなアルバム「Lovesexy」でした。
同アルバムは、プリンスの全作品の中でも、最も売り上げを度外視したものと言えます。サーチできないCD、花に囲まれた全裸のプリンスというジャケット・デザイン。結果、芸術的評価とは反比例するように、セールス不振に陥ります。
※ プレスも終えていたため膨大に流出し、世界一有名なブートレグと呼ばれました。後に契約消化のため期間限定で販売。
Lovesexy ツアーは、プリンス史上最大規模のコンサートとなりました。ツアー地は、ヨーロッパ、アメリカ、日本。 ファンタジー・アイランドと命名された総工費200万ドルの円形ステージ上には、様々な遊具、実物大のフォード・Tバード、夢の情景をイメージした風変わりな舞台が入り乱れており、360度のいずれの角度からも演奏を楽しむことができました。 このコンサートを観た多くの著名人の中には、かのアンディ・ウォーホールもおり、彼は「今まで観たコンサートの中で最も素晴らしい」と評しています。
「Purple Rain」以降、人気が低迷しているアメリカとは対照的に、プリンスの人気はヨーロッパにおいて顕著に向上していました。同コンサートのチケット需要もヨーロッパにおいては劇的なもので、チケットの多くは発売後間もなく売り切れました。
保守的なアメリカ人は、アーティスティックに変化していくプリンスに追いつくことができなくなっていたのかもしれません。
バットマン・フィーバー
1989年。世界がコウモリ男に染まった年(日本を除く)。
売り上げは低迷していたものの、業界からの絶大な評価を得ていたプリンスは、ティム・バートン監督による映画「バットマン」の音楽製作を依頼されます(余談ですが、ジョーカー役で主演の
ジャック・ニコルソンはプリンスの大ファンで、プリンスはバットマンの大ファン)。映画自体の重厚なスコアは、ダニー・エルフマンが担当しました。プリンスは、あくまで「映画に触発された」というコンセプトで、アルバム1枚を製作しました。実際に映画で使用されたのは数曲です。
シングル「Batdance」は全米1位を記録。プリンスが小さい頃に観ていたTVシリーズバットマンのテーマの新解釈とも言える快作でした。
モンスター・ヒットを記録した映画同様、プリンスのアルバム「Batman」も大成功。特にアメリカにおけるプリンスの地位を「Purple Rain」の頃と同等にまで押し上げました。
余談ですが、映画「Batman」に主演していた女優キム・ベイシンガーとプリンスは一時期交際していました。キムのために曲を提供するというプランもあったらしい…
参考文献:
「プリンス大百科」ソニー・マガジンズ ISBN4-7897-0689-3
「A Pop Life」㈱CBS・ソニー出版 ISBN4-7897-0506-4
「Prince[1958-1994]」宝島社 ISBN4-7966-0859-1
「戦略の貴公子」blues interactions, inc. ISBN 978-4-86020-257-6